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「プリパラがおもしろい理由」は他にあるんじゃないかなぁ

プリパラがおもしろい理由を考えていたら、この世の真理に辿り着いた - ブログ宮
id:kagem:20180331

興味深い理論だ。力作だ。もっと深掘りすれば、それはそれは素晴らしいものに…… と考えていくほど、元記事の筆者氏と自分とで理想とする運用がどんどん違ってきているのではないかという疑念が深まる
まあいい、細かいことは後にしよう。筆者氏には悪いが「いや待てそれは明らかに違うだろう」というところの指摘から始めさせていただく

「字幕芸」って、あるよね

先のブログを「ふむふむ。なるほどなるほど」と読み進め、話が本題であるプリパラに差し掛かった頃には「そういやこれプリパラの話だったわ」とすっかり忘れていて改めて思い出すような有様であったが、同時にこうも考えた。ギャグに「上品」と「下品」の概念(もしくは分類)を導入したけど、プリパラは「下品」なギャグの例に事欠かないのでは?*1
果たして元記事がプリパラの「上品」なギャグを紹介していく中で、最後の最後にやらかした。それはどう考えても「上品」ではないだろう
詳しく見て行こう。最後に紹介されたのはあの「語尾がない」である。プリパラ2期13話(通算51話)をご覧の方は確実に笑った覚えがあるであろう、紫京院ひびきと緑風ふわりの出会いのエピソードである。ここでギャグとして字幕が活用されているが、字幕は元記事でいう「イタコ」に属するものであり、作中の「世界」を離れて純粋に表現媒体でしかない。であれば、急に字幕テロップが出てきて台詞を強調するのは、「世界ありきのフレームワーク」に則った「上品」なギャグではない。いくらプリパラでも、急に字幕がカメラの前に現れるのはあちらの世界の茶飯事ではないのだ*2。正直言って、元記事でここに触れている箇所はそれまでの理路整然とした議論とうって変わって、理論の破綻を取り繕うために意味不明な言い訳に終始してるとしか思えなかった

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むしろ逆にこう考えることができる。あれくらいしないと、「上品」すぎてギャグにならないからああしたのではないか?
元記事の筆者氏には悪いが、プリンスこと紫京院ひびきが「語尾がない」と発言すること自体は何の違和感もない。プリパラにおける語尾の概念はアイドルみれぃが登場した1話から確として存在したものであり、作中でその概念が「語尾」と言う名で言及されたこともあるどころか、32話「みれぃ、ぷりやめるってよ」に至っては半ば語尾を主題としたエピソードと言えるだろう
そしてプリパラにおける「語尾」はキャラ作りの産物であり、人為的な存在である*3。であれば自然と共に育ったナチュラル少女であるふわりに対して、「語尾がない」と評することはそれこそ自然な話であろう
なるほど、そう考えると珍妙な台詞のくせに一定の納得感があってギャグとしては弱い。そこで字幕の登場と相成ったのではなかろうか

その「リアリティ」、必要ですか?

よし、元の議論の主題を台無しにしたところで、本来は議論のためのツール(主従の従)であるはずの理論についてをメインに掘り下げていこう、そうしよう
元記事の理論は作品世界への没入が阻害されない状態を「面白い」と定義し、逆にいかなる状態において没入が阻害される=「面白くない」のかを説明しています。つまり実は、「面白い」とはどういうことかよりも、「面白くない」とはどういうことかについて、より多くの言葉を割いて語っているわけですね、直接的には。まあ平たく言えば減点法なのです。そこで、僕は思いついたのです。ここを加点法にすれば、より分かりやすく、より応用が利くのではないかと
分かりやすく例を挙げましょう。元記事の「面白くない」パターンの一つ、「神」の作った「世界」に「ほつれ」がある場合――設定に齟齬があるとか、展開上不自然な言動とかの場合ですね。逆に考えれば、「世界」が受け手から見て好ましいほど、作品への没入度が上がるはずなのです。例えば非常に分かりやすい例として、キャラデザが自分の好みの場合とそうでない場合、設定やストーリーが一緒でも、キャラデザが好みの方が見ていて面白いですよね? やっぱり、どうせならキャラの見た目が好みの方が、見ていて熱が入るというものです。他にも、「出来がいいな〜」と感じる作品でも、やっぱりストーリーや設定が自分好みの方が面白いですよね*4。そうです、「よくできている」と「面白い」って違うんですよね
そう考えると、減点法の難点が出てきます。減点法で考えると、「よくできている」=「面白い」になっちゃうんですよね。減点箇所がない→作品への没入度にマイナスにならない→面白い になってしまう。やっぱり、どういう時に面白さを感じるかって考えてみると、加点法で評価しないと説明がつかないところが頻繁に出てくるはずです。欠点を補って余りある面白さみたいな話も加点法なら説明できますしね

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さて、僕は上で敢えて「作品への没入度」という言い回しをしました。元記事に沿った言い回しであれば、作品の「世界」への没入度と言っているはずです。何故このように言い回しを変えたのかと言うと、元記事の理論を掘り下げるにつれて、面白さとは作品そのものへの没入度であって、作中世界への没入度ではないとの考えに至ったからです。ここでプリキュアシリーズから2作品を例に説明しましょう。ドキドキ!プリキュア(以下「ドキプリ」)とGo!プリンセスプリキュア(以下「ゴープリ」)の2作品は、どちらも自信をもって面白い!と言える傑作*5ですが、自分がどちらをより面白く感じたかと問われれば、ドキプリの名を挙げます。何故かと言えば後半の展開がドキプリの方が僕は続きが気になって*6面白かったからなんですが、これって別にドキプリの大貝町とゴープリのノーブル学園のどっちがイメージしやすいかって全然関係ないわけですよ
いや、まあこの言い方はよくない。元記事の「世界」というのは、作中世界に存在するキャラクターや、そこで展開されるストーリーを内包する概念ですからね。だからここで比較すべきは、ドキプリとゴープリのストーリーに対して、どちらがより違和感なく/自然に/親身に感じられるかというあたりで。でもその観点で聞かれると「別にそうそう甲乙つけられる感じじゃないな〜」ってなっちゃうんですよ。やっぱり「よくできている」≠「面白い」なんですよね

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んでもって、先ほどストーリーの話で世界観を持ち出すような意地悪な言い方をわざわざしたのは、強調したかったんですよ。いかにリアリティが感じられるかというのは主題ではなく、それに関する長々とした議論は実は不要だということを
ここではジャンルを変えてゲームを例に出しましょう。なあに、元の理屈からしてアニメや漫画から、転がった箸の面白さにまで適用できる射程範囲の広さですから問題ない。皆さんインベーダーゲームはご存知ですね?(強要) 現在のゲームと比べるとグラフィックに天と地の差があるというか、もはや過分に抽象的とまで言えそうなドット絵ですので、当然リアリティの面では分が悪い。設定もおおまかですから余計に。しかし、それであのゲームの面白さが損なわれるかと言えばそうではないわけです*7
もっと極端な例を出しましょう、テトリス。グラフィックだけじゃありません。「ストーリー」にしてみても、一番下の列を揃えると消えるとか、一番上まで積みあがると負けだとか、完全にそういう設定だからそうなってる以上のものではないですよね。リアリティを担保する何かしらがあるわけではない。あるとすれば、デジタルゲームなので演出付きでインタラクティブにルールに基づいた動きをするくらい。あとはトランプのようなアナログゲームと同じで、元からそういうルールでそうやって遊ぶと面白いからそうなってるというだけ
囲碁よりも将棋の方が、駒の具体性が高いのでリアリティがより高く面白いという話があるでしょうか? 将棋で取った駒が自分のものとして使えるのは具体的に考えると不自然であり、リアリティを損なうから面白くないでしょうか? 二歩や千日手などの禁止ルールは、最終的にはその存在が対局の展開という「ストーリー」を面白くする方向に働くものですが、それは「ストーリー」の展開をより自然にし、リアリティを増すものではないことは明らかでしょう
結局、実際は「リアリティ」≠「面白さ」なのです。確かに「リアリティ」は面白さにおける大きな加点要素の一つではありますが*8

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さて、またも元記事の主題を台無しにしてしまいました。何せ元記事の理論の大本は「リアリティ」=「面白さ」であり、後は「リアリティ」が損なわれる状況とは何かという論の立て方なのですから。いや、元記事の理論には随分感銘を受けてるんですよこれでも。だけど自分の中で消化していくと、どうにも元記事の筆者氏が意図しているであろう運用から外れていく
しかし、何と言おうと元記事のリアリティについての議論は興味深い。いかにイエス・キリスト聖徳太子の逸話が盛られていて半ば伝説の存在であったとしても、確かにナザレのイエス厩戸王は実在の人物だし、いくら神武天皇が伝説上の人物であっても、元になる大王が実在したと考えるのが学説の主流。かつては純粋に伝説の中の存在でしかなかったトロイアや殷王朝が、発掘され実在が確かになったこともある
架空の現代日本と、実在の古代の外国のどちらによりリアリティを感じるか? なるほど実在性とリアリティは同一ではない。リアルとリアリティは違うというお決まりの結論ではあるが。なにせ実在する藤井六段は、フィクションよりもすごすぎて逆にリアリティがない
それでも結局、「リアリティ」=「面白さ」ではない。遥か古代中国の三国志と、目の前にあるアリの行列(があったとして)。どちらがより「リアリティ」を感じられるか? どちらがより「面白さ」を感じられるか? 答えは人それぞれだろうが、この例において「リアリティ」と「面白さ」には相関関係すら生じないのではないだろうか

僕の脳内のツッコミ

「神」や「イタコ」を含めたメタ「世界」を鑑賞しているという「世界の拡張」という概念は実に興味深いが、深追いするとややこしいことになりそうなのでやらない。元記事で細かく触れなかったのは「ボケとツッコミのフレームワーク」を導入すればその必要はないということであろう
さて、ここからはほんの思い付きの余談でしかないのだが、この「ボケとツッコミのフレームワーク」、「ピン芸人でも成立する枠組みなのにボケとツッコミってネーミングどうよ?」という話なのだが、そう考えて思いついた。ツッコミ不在のギャグは受け手にツッコミを委ねているのではなかろうか? いや、考えてみれば別にギャグにツッコミが必須というわけではない。ツッコミがボケをギャグとして認識させる機能があるのは確かだと思うが。しかし、世の中には「ツッコミ待ち」と言われるようなタイプのギャグがあることも確かなわけで、つまり何が言いたいのかと言えば、通常の感性の世界において、何か異常なことがあればツッコミを入れるのは普通のことなはずだ
例えば考えていただきたい。自分の身近な人が何かおかしなことを言った。それが冗談であれば笑いながらツッコミを入れることだろう。それが真面目な話の場合でも、真面目に「それはどういうことなんだ?」とツッコミじみた言葉をかけるに違いない。そうだ、ツッコミにはギャグを成立させるギャグとしてのツッコミだけではなく、当然の反応としの自然なツッコミもあるのだ

個人差を許容した普遍性

とりとめのない、面白そうなだけで面白い結論が出なかった話題から、もうちょっと元の議論に資するテーマに戻ろう
元記事のコメント欄で、筆者氏は個人差の問題があるせいでこの理論には限界があるということを残念そうにおっしゃっているがそこは残念がるところではない。むしろ、個人差の問題しか残らない極地まで迫ることができるのが、この理論の素晴らしさであり、また、この理論自体は個人差の問題を脇に置いて成り立つのが素晴らしいのだ。確かに、最終的な「面白い/面白くない」を決める段階で個人の感覚の差異が反映されるのがこの理論だ。しかし、逆に言えば、「自分はここでこう感じる」という個人の感覚を説明すればあとの部分は普遍的な説明が可能なのだ素晴らしい! そもそも、「面白い/面白くない」というものはどうあがいても個人の感覚の問題であり、ある物事について普遍的に「面白い/面白くない」を断じようなどということはおこがましいにもほどがあり、つまりは不可能なのだしかし!個々人が感じた「面白い/面白くない」について普遍的な説明を与えようというのは理想的には可能ではないだろうか? そしてこの理論はその理想に近づくことができる可能性を見せてくれるものなのだ

*1:ちなみに他の森脇監督作品だとミルキィホームズは「下品」なギャグは見本市状態だな。「上品」ばかりで占められている例だったらジュエルペット きら☆デコあたりが適切…… いや、あれも大概か。だってめっちゃルルーシュなあいつとかいるもんな。よく見ると全然キャラデザ違うけど

*2:ちなみにプリパラで同様の字幕を使ったギャグは、20話の「※良い子はマネしないでね」に始まり、アイドルタイム51話の「※良い子も悪い子もマネしないでね!」に至るまでずっと見受けられるものである

*3:あのあじみ先生にあっても、ゴビ砂漠で語尾を会得したことと、紫京院との再会に合わせてかつてのフルーツ語尾を使用したところから、意図をもって語尾を用いていることが伺える。止められないのは話が別

*4:よくできてるけど自分の好みじゃないなってなること、経験あると思います

*5:少なくとも僕にとっては

*6:復活したレジーナとプリキュア達の関係がどう着地するかとか、あぐりちゃんが何者なのかとか

*7:もちろんグラフィックの良さはゲームにおいて大いに加点要素になりますし、グラフィックの悪さが問題になるケースもあります

*8:逆に、面白い作品だから、作中世界が気になってのめり込むことで、身近に感じられ頭に思い浮かべやすくなるパターンもあります